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野生動物の病理学                   
            野田亜矢子(岐阜大学大学院 連合獣医学研究科 現在休学中)

 3年間、6回にわたって連載してきたこのコーナーも、今回が最終回です。小難しい病理学の話を、いかに面白く、可能な限りわかりやすく伝えるか、をテーマにここまで来ましたが、いかがでしたでしょうか。私の思いつくままに、あるいはこんなテーマはどうですか?なんていう提案をもとに、何の脈絡もなく(笑)いろんな話を書いてきましたが、最終回の今回は塗沫標本、あるいはスタンプ標本の話をしてみようかと思います。たぶん、病理をやっていても、塗沫標本やスタンプ標本は苦手!とおっしゃる方は大勢おられるのではないかと思います。かくいう私も、塗沫標本やスタンプ標本は大変苦手です(なーんて、胸を張って言う事じゃないですけどね)。それでもなおかつ、この苦手なテーマに無謀にも挑んでみようというのには、理由があります。

 実は現在、ひょんなことから動物園動物の臨床の現場に携わる機会を得て、本職の(?)病理屋さんを一時休業しています。そこで痛感したのが、なにしろ相手はイヌ、ネコじゃない!調子が悪くなったって、検査なんてできやしない!という事実でした。病理を通して、それは前々から理解していたつもりだったのですが、実際に体験するというのは人が殴られてるのをみて、うわっ痛そう!と思うのと、実際自分が殴られて痛ーっ!と思うくらいの差がありました(笑)。お手軽に検査の出来ない動物たちから、なんとかして情報を得ようとしたとき、最も手に入れやすいものは何か?と考えると、それは排泄物(たとえば尿や糞便、あるいは鼻汁とか)だったり、あるいはポコッとできた腫れ物をちょっとかすめとったものだったり、するわけです。そして、それらをそれこそワラでもつかむ気持ちでスタンプしたり塗沫したりして、そこからなんとか情報を得ようと考えるわけです。一方、スタンプ標本や塗沫標本を受け取った病理屋さんの立場(つまり今までの立場、ということになるわけですが)に立ってみます。もちろん、スタンプ標本や塗沫標本が得意です!とおっしゃる病理屋さんもいないわけではないと思うのですが、紫色に染まった標本たちを前に、うーんとうなってしまう病理屋さんが多いのではないでしょうか。それもそのはず、スタンプ標本や塗沫標本からは限られた情報しか得ることが出来ません。もちろん、普段見慣れたHE標本だって限られた情報しか得られませんが、HE標本は言ってみれば平面の世界です。そしてスタンプ標本や塗沫標本は点や線の世界です。病理屋さんというのは、標本を通して一つのストーリーを作るのが仕事です。同じストーリーを作るなら、どっちが作りやすいか、一目瞭然ですよね。今までも、鼻汁の塗沫標本や尿沈渣の標本を見るたびに、うーん、よく分からないよーと頭を抱えていた私です。けれど、人間立場が変われば言うことが変わりますね、それは政治家を見ていてもお分かりいただけるかと思います(笑)。病理屋さんのみなさん、ぜひ塗沫標本やスタンプ標本の勉強をしましょう(笑)。そんなわけで、今回は手元にある少ない標本たちに登場願うことにしました。

 塗沫標本やスタンプ標本は、得られる情報は限られていますが、手っ取り早く標本を作ることが出来る上に、きわめて短時間の間に鏡検するところまでもっていく事が可能という利点があります。さらにはサンプルも取りやすい(もっともこれは状況や、サンプルによりけりですが)というのが長所と言えるでしょう。逆に欠点は、得られる情報がどうしてもより限られてしまう、という点でしょう。それでも、時にはスタンプ標本がかなりの情報を提供してくれることがあります。写真1は、急に調子を崩して死亡したケープハイラックスの肝臓のスタンプです。中央にシストがあります。写真2はおなじハイラックスの肝臓のHE標本です。まったく同じシストが、肝細胞内にありますよね。このシストはその後、免疫染色によってトキソプラズマのものと診断されました。つまりこのハイラックスはトキソプラズマ症だったのです。かなり濃厚感染していたため、肝臓(以外にも脳だの脾臓だの心臓だの、ありとあらゆる臓器に見られましたが)に多数このようなトキソプラズマの偽シストやタキゾイトがあり、スタンプ標本上でも見られたというわけです。写真3は鼻汁を出すなどの症状を呈した後に死亡した、コアラの肺のスタンプ標本です。写真4は同じコアラの肺のHE標本です。どちらにも独特の形をした、同じような病原体が見られますよね。これは、クリプトコッカスの菌体です。このように、スタンプ標本や塗沫標本からでも、重要な情報を得られます。たまたまここで上げた例は、死後の剖検時にスタンプした標本なのですが、場合によっては生前のスタンプ標本や塗沫標本から、きわめて重要な情報が得られる例もあるでしょう。このような例をみると、訳の分からない(?)スタンプや塗沫も、嫌っちゃいけないよなー、と思ったりするのですが、実は恥ずかしながら告白すると、この両方の例ともスタンプ標本から診断できなかったという、きわめて情けない失態を演じています(HE標本を見てから、もう一度スタンプ標本を見直して、ありゃー!と頭を抱えたのでした。スタンプされていたシストの数が少なかったトキソプラズマ症はともかく、クリプトコッカスについては弁解の余地もありません!)。嫌い!苦手!という意識が先行しすぎたのかなぁ、と反省しきりなのですが。

 例に上げたようなケース以外でも、たとえばジステンパーなどでは塗沫された細胞中に封入体が認められることがあったり、あるいは血尿を出している動物の尿沈渣を見たら、腫瘍細胞とおもわれる異形細胞が混じっていた、といったものもありますし、胸水や腹水の塗沫などからその原因が炎症性か腫瘍によるものなのかが見当つくこともあるでしょう。このように、バッチリと犯人が防犯カメラに写っていてくれれば問題はないのですが、なかなかそうは問屋がおろしてくれないものです。問題なのは、スタンプ標本や塗沫標本に「犯人」が認められないからといって、シロとは言えない点です。例えば、とある病原体が尿沈渣中に出やすい、という記述が教科書などにあったとします。当然の事ながらその病原体による疾病を疑ったなら、尿をサンプリングしてその病原体が確認できるかどうか、塗沫標本を病理屋さんに送りますよね。けれども、往々にしてその塗沫標本上からは確認できなかったりするわけです。けれどもそれは「確認できない」のであって、「ない」わけではないのです。つまり診断する上で、「〜である」と言うことはできても、「〜でない」とは言えない、というわけです。そのあたりがスタンプ標本や塗沫標本の難しいところです。また、最初に述べたようにHE標本が平面の世界だとしたら、スタンプや塗沫は点や線の世界です。つまり組織構築を知ることは出来ません。おそらく普通の病理屋さんが最も身近で接するスタンプ標本は、腫瘍のスタンプではないでしょうか。そしてこのようなスタンプで腫瘍の種類をバッチリ診断できることはまれです(リンパ腫や肥満細胞腫などはそのまれなケースです)。大方は上皮系(細胞がシート状に取れてくるなどの特徴があります)か非上皮系(細胞の形が紡錘形だったり、バラバラに取れてくるなどの特徴があります)かの大まかな区別と、ある程度の悪性度(取れてきた細胞の大小不同や、核仁、クロマチン、核と細胞質の比などを見て診断します)が分かる程度で、立体的な、あるいは平面的な構造を知ることはできません。もちろん類推する事は可能ですが(それはHE標本でも同じ事です。例えば腫瘍の浸潤の具合など、言ってみれば立体的な組織の状態を、さまざまな情報から類推したりしますよね)、かなり難しいものです。言い換えるならHE標本ではその細胞の顔(つまり細胞の形態)や、彼(彼女?)の友人達(周囲にある細胞や、その細胞との関係など)が分かりますが、スタンプや塗沫ではその細胞の顔は分かるけど、交友関係まではよく分からないということです。例えば肉芽腫などで出てくるマクロファージや線維芽細胞などは、とても元気で若々しい細胞(つまり核仁が明瞭だったり、妙に核が大きかったりと、未成熟な細胞の特徴を持っていたりするのです)なので、腫瘍細胞と間違えそうになったりします。また、尿沈渣中に細胞が出ているのは分かるけど、その細胞が出ているから一体どこで何が起こっているわけ?といった疑問に答えるのはなかなか難しいものです。ただ、疑問に完全に答えられなくても、少しでも多くの情報や手がかりを得ることが出来るように、日頃からHE標本などでしっかりと組織学そのものの勉強をするとか、あるいは炎症だの腫瘍だのといった病態やその機序について勉強をするとか、スタンプ標本や塗沫標本を見るにあたっては、そういった幅の広いアプローチが必要だと思います。(その意味もあって、今回はHE標本とスタンプ標本の両方を並べてみました)こんな細胞が出ているっていうことは、この塗沫された細胞の出身地はここかな?とか、この部分から取った塗沫、あるいはスタンプ標本なのに、こんな細胞が出てるというのはヘンだよなぁ、といったことを読みとることができるようになれば、私の塗沫標本やスタンプ標本を見る目も、少しは進歩したと思っていいのかな?と思っているのですが、なかなか険しい道のりです。

 というわけで最終回、スタンプ標本と塗沫標本の話、いかがだったでしょうか。未だに私自身が苦手意識から脱却できていませんので、ちょっと中途半端な話になってしまいました。今回、この原稿を書くにために、スタンプ標本や塗沫標本の写真を探したのですが、実際きっちりと診断できたものが少ないため、写真そのものがあまりありませんでした。うーん、これじゃいかんなぁ、と反省しきりです。でも目下、塗沫標本たちと親しい友人になるべく、奮闘中です。そして、全国の病理屋さんの皆様、なんだかよく分からない塗沫標本やスタンプ標本が送られてきても、何これ?なーんて言わずに、そこから得られる限りの情報を提供して下さいね(笑)!たとえイルカのプールに浮いているしろっぽいヒラヒラした物体でも、キリンのくしゃみとともに出てきた鼻汁でも、あるいはゴミとともに拾われたゾウの尿でも、何かの情報が得られると思うのです。
 この連載で、少しでも野生動物の病理学に興味を持って下さる方が増えたなら、締め切りがー!とか、ネタがないー!と頭を抱えた日々が報われます(笑)。そして、動物園や水族館の獣医師の方々、いろんな形で情報やネタを提供して下さった皆さん、それから忙しいのに「こんな文章でいいかなぁ?」などという私のタワゴトにつき合ってくれた家畜病理学講座の後輩の皆さん、どうもありがとうございました。この場をかりて、お礼申し上げます。


写真1:ケープハイラックス・肝臓スタンプ(ギムザライト染色);中央にトキソプラズマのシストを    認める
写真2:同(HE染色);肝細胞内に写真1と同じシストが認められる
写真3:コアラ・肺スタンプ(ヘマカラー);好中球などの炎症細胞とともに、多数のクリプトコッカ    スの菌体(中央)を認める
写真4:同(HE染色);肺胞内に多数のクリプトコッカスの菌体を認める

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